ウイーン体制(1814年~1848年または1856年)

 

成立

1814年9月から、ヨーロッパの秩序を再編する国際会議として開催されたのがウイーン会議。

墺外相のメッテルニヒが議長.オスマン帝国を除く全ヨーロッパの支配者が参加。

 

      仏の外相タレーランが主張した「すべてを革命前に戻す」という正統主

      を基本とする一方、大国間の勢力均衡もはかったが、各国の利害対立で

      糾した。

 

1815年6月にウイーン議定書が調印され、ウイーン体制が成立。1848年革命を経

      クリミア戦争(1853年-1856年)によって完全に崩壊するまで続いた国

      体制。

 

神聖同盟  ロシア皇帝アレキサンドル1世が提唱し、キリスト教の正義・友愛の精神

      に基づく君主間の精神的盟約。

 

四国同盟  軍事同盟。1815年に英・墺・プロイセン・露で結ばれ、1818年に

      仏も加え五国同盟となる。

 

内容    仏・スペインでブルボン王家が復活し、ロシア皇帝がポーランド国王を兼

      ね、プロイセンは東西に領土を拡大し、 

      イギリスは旧オランダ領のスリランカ(セイロン島)・ケープ植民地の領

      有。立憲王国となったオランダは旧墺領ネーデルランド(ベルギー)を譲

      渡され、墺は北イタリアを得た。

      スイスが永世中立国となり、ドイツ連邦が新たに組織された。

 

      その結果、国際的な保守半導体制で自由主義・国民主義運動を抑圧した。

                         が、政治参加の拡大と身分的特権や規制の廃止を求める、ブルジョワ階層

      を主な担い手とする自由主義の高まりを抑えきれなかった。

 

      したがって、オスマン帝国から独立したギリシャ独立戦争以外に戦争はな

      かったが、各国内では、自由や平等、自決権を求めるっ各種の運動が展開

      し、激動の様相を示した。

 

ウイーン体制の動揺

 

    1.ブルシェンシャフト(ドイツ学生連盟)の運動:1817年

    2.伊のカルボナリ(炭焼等)の蜂起:1820年

    3.スペイン立憲革命:1820年

    4.ロシアのデカプリスト(自由主義的貴族士官)の乱:1825年

 

    5.1821年にギリシャはオスマン帝国からの独立戦争を始め、東地中海へ

      の進出を目指す露・英・仏が東地中海への進出を狙って支援。

      1829年に独立達成、1830年のロンドン会議で列国がギリシャを

      承認。この際、オーストリアが反対し、賛成した露・英・仏と亀裂が

      生じた。

 

ラテンアメリカ諸国の独立

  

      ナポレオン時代の支配国の混乱に乗じて、植民地の独立運動が活発化。

 1804年ハイチが仏から独立。初の黒人共和国となる。

      南米では、クリオーリョ(植民地生まれの白人)が中心となり、1810年

      以降、北部でシモン=ボリバル、南部ではサン=マルティンの指導で諸国が

      独立を達成。

 1821年メキシコ、1822年ブラジルも独立した。

 

独立を支援した事柄は・・・

本国のスペインの国力がナポレオン侵入で弱まったこと。

米大統領のモンローは、1823年、モンロー宣言(教書)で、アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を主張したこと。

英国(カニング外相)はラテンアメリカの市場開拓を狙い独立を承認し支援した。

また、メッテルニヒの抑圧的な現状維持政策から次第に距離を置き始めた。

 

メッテルニヒは独立運動に干渉できず、ウイーン体制にほころびが。

 

ウイーン体制の破綻

    

 

 

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テスト:1.

ナポレオン・ボナパルトは【1】の貧乏貴族出身で、砲兵士官になり革命中はジャコバン派を支持、テルミドールの反動で一時投獄された。1795年には王党派のヴァンでミエールの反乱を鎮圧し国内軍司令官に任命された。1796年には【2】司令官として第1回イタリア遠征で【3】軍を撃破し【4】の和で【5】を解体、この条約でフランスは南ネーデルラント(ベルギー)とアドリア海諸島を獲得した。

 


1848年フランス革命 第二共和政

 フランスの二月革命によって成立した1848年~1852年の共和政体。フランス革命時の第一共和政(1792年9月~1804年5月)に次ぐ共和政。正式には11月の共和国憲法制定からであろうが、一般的に2月の七月王政崩壊後の臨時政府も含めて第二共和政としている。 → 1848年革命
 当初はラマルティーヌなどのブルジョワ共和派とともに、ルイ=ブラン社会主義者も含む臨時政府のもとで改革が進められ、国立作業場の設置など、積極的な改革を進めたが、

 

経済不安が続き、有産層や『農民』は土地の所有権はく奪を恐れ4月普通選挙の結果、社会主義勢力が後退することとなった。

 

ブルジョワ勢力が主導権を握った臨時政府が国立作業場の廃止に踏み切ると、反発した『労働者』の蜂起を政府軍が鎮圧するという6月の事件を起こしたが鎮圧され、軍人のカヴェニャックが実権を握った。

一方で王党派の勢力が増大するなど、動揺が続いた。11月に制定された第二共和政憲法は人民主権、三権分立、大統領制を採用し、男子普通選挙を定めたが、年末の大統領選挙で当選したルイ=ナポレオンは、1851年にクーデターを起こし、憲法を修正して、さらに国民投票を実施して翌52年1月にはナポレオン3世として即位して第二共和政は終わり第二帝政へと移行する。


フランスの

7月革命1830年と1848年の2月革命

 

七月革命

 

 

7月革命

1830年、フランスでブルジョワ共和派が復古王政を倒した革命。七月王政の立憲君主政が成立した。

 

1830年、フランス復古王政シャルル10世の言論弾圧などに対してブルジョワ共和派を支持するパリ市民が蜂起して、絶対主義体制を倒し七月王政を出現させた変革。ヨーロッパの各地の反動勢力にも大きな打撃となり、ウィーン体制を大きく動揺させた。
 1830年7月27日早朝、発行された『ナショナル』『グローブ』などの新聞が直ちに警察によって没収されると、印刷所では抵抗が始まり、パリ市街に暴動が起こった。一旦鎮圧されたが、軍が引き揚げた後、バリケードが築かれ、学生と労働者、カルボナリの残党がパリ12区の蜂起のための委員会を作った。翌日、パリ市庁、ノートルダムで激しい衝突が起こった。銀行家ラフィトはポリニャック首相に勅令撤回・内閣交替の要求を国王に伝えるように要請したが、面会を拒否された。その夜、ラフィト邸が抵抗運動本部となった。夜通しの戦闘で市庁舎は奪回され、翌朝、ラ=ファイエットを国民軍司令官とし、ラフィトらをパリ市委員会に任命、市庁舎に乗り込んだ。政府軍の一部が共和派に寝返り、戦局は一転、ルーブルでもスイス人守備隊の抵抗を排除して市民が突入し、時計台に三色旗を掲げ、玉座にひとりの戦死者を座らせた。ヴェルサイユから9キロのサン-クルーにいたシャルル10世もようやく内閣会議を開き、勅令撤回と内閣の交替を決定した。これが『栄光の3日間』といわれる戦いだった。
 この戦いには『幻想交響曲』作曲中の27歳のベルリオーズも参加し、33歳の画家ドラクロワは大作『民衆を率いる自由の女神』を描いた。この民衆蜂起の結果、シャルル10世は退位し、復古王政は終わりを告げ、ブルボン家の分家のオルレアン家のルイ=フィリップが国王となり七月王政となった。

 

7月王制

1830年の七月革命によって成立した立憲君主政の政体。

 

1830年の七月革命によって成立した国王ルイ=フィリップのもとでの立憲君主政。1848年の二月革命まで続く。政治体制は1830年の憲法に基づく、立憲君主政。議会は制限選挙制によって有産者が多数を占め、上層ブルジョアジーが支配権力を握った。そこで、ルイ=フィリップを市民王、七月王政をブルジョア王政などという。この七月王政の18年間はフランスの産業革命時代となり、機械化が進み鉄道の建設が始まった
また1830年に始まるアルジェリア出兵による植民地化をさらに進め、またエジプト=トルコ戦争でのムハンマド=アリーへの支援など、東方問題への介入を強めた。一方、産業革命の進行に伴い、都市の中産階級と労働者階級も形成され、彼らは普通選挙などの改革を要求して上層ブルジョアジー政権である国王ルイ=フィリップとギゾー内閣への批判を強め、1848年の二月革命が勃発する。

 

 


二月革命

 

1848年、フランスで七月王政を終わらせ第二共和政に転換させた変革。ベルリンとウィーンの三月革命を呼び起こし、一連の1848年革命によってウィーン体制を終わらせた。

 

 七月王政のもとで、普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動が強まる中、ギゾー内閣はそれを拒否続けていた。政府によって集会が禁止されたため、普通選挙を要求する人びとは改革宴会という形で運動を続けたが、政府は宴会禁止令をだして、それも取り締まろうとした。1848年2月、激昂したパリの市民、労働者が蜂起して、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立した

1848年革命 ウィーン体制の崩壊へ フランスに共和政を復活させた二月革命は、ただちにベルリンとウィーンに飛び火して三月革命を勃発させ、ヨーロッパ全土に及ぶ1848年革命の口火となった。その結果、ナポレオン没落後のヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制は崩壊した。

 


確認テスト 7月革命と2月革命

 ①フランスでは王政復古のもと、1814年(1. )が新憲法を発布して君主主権に基づく立憲王政が敷かれたが、(2. )が即位すると貴族・聖職者を重んじて議会を圧迫し、反動化の傾向を強め、左記の革命中に土地を没収された亡命帰属に補償金を出すなど、反動的な政策をとった。

 

②(2.)は国内の不満をそらすため、1830年に(3. )に出兵したが不満は解消されず同年に(4. )が起きたので亡命し、(5. )家の(6. )が新たな王に迎えられ(7. )が成立した。

 

7月革命の影響:

(1)ベルギーがオランダから独立ー1830年

(2)イタリア:カルボナリが蜂起⇨失敗ー1831年

(3)ポーランド反乱⇨ロシアが鎮圧ー1830年~31年

 

7月王政下で産業革命が進展し

     中小資本家・労働者階級が台頭⇨選挙権を要求⇨改革宴会

 

解答

1.ルイ18世 2.シャルル10世 3.アルジェリア 4.7月革命 5.オルレアン

6.ルイ=フィリップ 7.7月王政 

 

 

①1848年、制限選挙の撤退を目指す(1. )の禁止をきっかけに、(2. )が起こり、第二共和政が成立し、臨時政府には当時の著名な社会学者(3.)が参画した。

臨時政府は1846年の凶作と経済不況下の失業者救済のため、(4.)を設置したが、農民は土地の所有権はく奪を恐れ反発した。

 

②同年、4月の総選挙(男性普通選挙)では、急進的政策を望まない有産層や農民の反発から(5.)が惨敗して(4.)は閉鎖されたが、それに反発した労働者によって(6.)が起きたが鎮圧された。この年の年末の大統領選挙で(7.)が選ばれた。

 

③(2.)はヨーロッパ各国のナショナリズムを誘発して、オーストリア政府の支配下にあった(8. )でも民族自決の運動が起こった。さらに、(9.)でも暴動が起きてフリードリッヒ=ウイルヘルム4世は国民議会の開設と憲法の制定を約束した。

 

時代は「諸民族の春」が到来したかに見え、ここに(10. )と呼ばれるヨーロッパ国際秩序が崩壊した。

 

そのほかの二月革命の影響

(1)ドイツ・オーストリアでの3月革命。メッテルニッヒのイギリス亡命。フランクフルト国民議会、ベーメンやハンガリーでの民族運動勃発。

(2)イギリスでは最後のチャーチスト運動が高揚をみせた。

 

解答

1.改革宴会 2.二月革命 3.ルイ=ブラン 4.国立作業場 5.社会主義者

6.6月暴動 7.ルイ=ナポレオン 8.ハンガリー 9.ベルリン 10.ウイーン体制

 

 


確認テストフランス第二帝政と第三共和政

①1848年の年末の大統領選挙で(1.)が農民を支持基盤に選ばれた。

1851年(2. )で反対派を軍・警察の力で弾圧、1852年には国民投票を通じて(3.)として即位し、第2帝政1852年~1870年(4. )がはじまった。

 

②その特質は資本家階級と労働者階級が勢力均衡の状態にあるときに、両者のバランスをとりつつ政権を維持する(5. )と、その支配の不安定さを、他国への侵略や(6. )開催のような人気取り政策や鉄道建設、都市改造などを通じ国内産業育成に努めて糊塗するものであった。

 

③積極的な対外政策(=侵略)としては、1854年にオスマン帝国への野心から(7. )に介入し、1856年~60年の(8. )ではイギリスとともに清を苦しめ、1858年~62年の仏越戦争では、(9. )朝ヴェトナムへ侵略(インドシナ侵略)を開始し、1859年に(10.)に介入し、失敗して中途で裏切ったりした。

 

④アメリカ合衆国との戦争に敗れ国土の半分を失ったメキシコでは、1854年に自由主義者でインディオ出身の(11. )が蜂起して大統領になったがその後内戦が発生した。仏・英・西は債務支払いを口実に1861年、共同で軍事介入した。

 

⑤特に仏は英・西の撤兵後も干渉を続け1864年にはオーストオリア皇帝の弟(12. )をメキシコ皇帝に据えたがメキシコ人民とのゲリラ闘争に敗北し、(12)は」銃殺され、仏軍は撤退した。

 

⑥威信回復をかけた(13.)で敗北し、ナポレオンはセダンの戦いで捕虜になり、

1870年7月、帝政は崩壊した。ブルジョワ共和派による臨時政府が成立し、ドイツと仮講和を結ぶと、これを屈辱的としてパリ民衆が蜂起し、1871年3月、(14. )を宣言した。1871年3月18日~5月28日とわずか2か月。

 

⑦しかし、まもなく政府軍によって鎮圧され、75年に憲法が制定され70年末までに

(15. )が確立した。

 

⑧1871年には(」6.)を首班とする臨時政府(ヴェルサイユ政府:ブルジョワ中心)が樹立。(15.)はフランス革命の後継者を自任し、国民教育の重視と積極的な対外進出をはかり、1880年代にはチュニジアやインドシナなどを植民地化した。

 

⑨ドイツがロシアとの(17)の更新を見送ったため、ロシアはフランスと1890年に露仏同盟をむすび関係が緊密化。

 

⑩1889年、軍部のクーデター未遂事件である(18.)やユダヤ系フランス人将校の軍事機密漏洩冤罪事件である(19.)などで対独復讐世論をを盛り上げ、戦争の危機をあおることで軍部の地位を向上させる目的。国民的な反軍部運動が起きた。

 

解答:

 

1.ルイ=ナポレオン 2.クーデター 3.皇帝 4.第2帝政 5.ボナパルティズム 6.万国博覧会 7.クリミア 8.アロー戦争 9.阮【げん】 10.イタリア統一戦争 11.ファレス 12.マキシミリアン 13.プロイセン~フランス戦争 14.パリ=コミューン 15.第三共和政 16.ティエール 17.再保障条約 18..ブーランジェ事件 19.ドレフュス事件