19世紀の欧米諸国ー2

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東方問題とロシアの改革

 

I、        東方問題の展開

 

*エジプト=トルコ戦争(第1次:1831年~33年、第21839年~40年)

 

ロシアは、オスマン帝国を助けてこの地域に進出を図った。しかし、英・仏・オーストリアが干渉し、ロシアの野望はかなえられなかった。

 

*クリミア戦争(1853~56年)

 

ロシアがオスマン帝国に対し、その領内に住む、ギリシャ正教徒の保護権を要求したが、拒否されて戦争になった。

 

これに、英・仏などがオスマン帝国側に立って介入した。

 

クリミア半島のデラスト-ポリ要塞が陥落しロシアは敗北した。

 

1856年、パリ条約でドナウ川の自由航行と黒海の中立化が決められ、ロシアの南下政策がまたもや失敗に終った。

 

また、イギリスとロシアが直接戦ったことでヨーロッパの国際関係が不安定化した。

 

*ロシア =トルコ戦争(露土戦争187778年)

 

ロシアはパン=スラブ主義を主張し、オスマン帝国領内のギリシャ正教徒の民族運動が弾圧されたことを口実に戦争をしかけ た。

 

ロシアは独力で戦ったオスマン帝国を破った。

 

1878年、サン=ステファノ条約で、ロシアの南下政策は成功。この条件のポイントは、

 

1. ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立承認。

 

2、 ブルガリアが自治領となり、領土を拡大。

 

この結果、ブルガリア領が地中海(エーゲ海)に接しロシアの軍艦が地中海を自が_航行できるようになった。

 

しかし、 イギリス、オーストリアがこの条約に強く反対し、ロシアと戦争の構えを見せた。そのためドイツのビスマルクが仲介に立ち、 同じ1878年にベルリン会議が開催された。

 

ベルリン会議の結果、ベルリン条約が結ばれ、ブルガリアの領土が大いにが縮少され、またもやロシアの南下政策は挫折した 。
また、イギリスはキプロス島の、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナの占領と行政権が認められたためにバルカン半島近辺でもロシアの影響力は小さくなった

 

ロシアの改革と反動(19世紀半ばの政治や社会の変化)

 

1855年、反動的なニコライ1世がクリミア戦争中に死亡しアレクサンドル2世が即位した。

 

1856年、 クリミア戦争に敗北し、アレクサンドル2世は政治や社会改革の必要」生を痛感し、1861年に農奴開放令を発布した 。

 

この結果、 ロシアの農民は人格的自由を得たがミール(農村共同体)縛り続けられて、納税などの連帯責任は負わされ続けた 。

 

しかし、農民から労働者に変わる者も増え、資本主義が発達し始めた。
1863
年にポーランドで大反乱が起こると、アレクサンドル2世は検閲制度、秘密警察の強化などの反動政策に戻った。

 

それに対し、知識人、学生らのインテリゲンツィアがヴ=ナロードというスローガンをかかげ、ナロードニキ(人民主義者) 運動を行った。

 

この運動の失敗に絶望した人々の間にニヒリズムやテロリズムが広がり、アレクサンドル2世は1881年に暗殺された。

 

19世紀の欧米

 

イギリスとフランスの発展

 

 

1. 「世界の工場」イギリスと民主主義の発展

 

19世紀半ば、イギリスは世界の場と呼ばれ、輸出を拡大して莫大な利益を得て、さらに強力な軍事力も加わり、世界の覇権を 握った。また、社会も安定して議会民主主義が発展した。

 

その中で、 185年、ロンドン万国博覧会も開かれた。

 

 

二大政党政治の発展

 

保守党と自由党の間で典型的な二大政党政治が行われた。代表的政治家は保守党のディズレーリと自由党のグラッドストン。

 

 

選挙権の拡大
2回選挙法改正(1867年)一都市の労働者に選挙権が拡大。

 

3回選挙法改正(1884年) 農業・鉱山労働者に選挙権が拡大

 

 

その他の改革(法律制定)

 

教育法の成立(1870年)-―公立学校を増加する法律。

 

労働組合法(1871年)の成立。一熟練工中心の穏健な組合を合法化。

 

 

2.自治領の成立
イギリス系移民支配の植民地に自治を与え、カナダ連邦、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦が成立した。

 

 

3.アイルランド問題
840年代, 激しい凶作(ジャガイモ飢饉きっかけにアイルランド解放運動が激化した。

 

1870年、グラッドストン内閣により.アイルランド土地法が制定されたが、不十分な内容で、その後アイルランド自治法案が 提出されたが、成立せず(20世紀に成立).アイルランド人の独立運はかえって激化した

 

 

4.第二帝政時代のフランス(1852~70年)

 

1852年ルイ=ナポレオンが皇帝となりナポレオン3世と称した。

 

国内政治では、ヽ諸勢力の対立をうまく利用して独裁政治を行った。対外政策では国民の人気を得ようとして侵略戦争を行った。

 

 

1853 -56年、クリミア戦争に参加し、ロシアの進出を抑えた。

 

1856-60年、アロー戦争に参加し、中国に進出。

 

1859年、イタリア統一戦争に干渉して、領土を譲り受けた。

 

1858~67年、インドシナ出兵を行い、インドシナ半島への進出に成功。しかし、 1861~67年のメキシコ出兵が失敗し、人気は急落した。

 

 

1870年、 プロイセン・フランス(普仏)戦争中、ナポレオン3世は捕虜となり、第二帝政は終った。

 

その後、ヴェルサイユで成立した臨時政府がドイツと講和条約を結び、巨額な賠償金の対いいとアルザス、ロレーヌ地方のドイツ割譲を行った。

 

1873月、労働者らによる自治政府(パリ=コミューン)が組織されたが、ドイツ軍の支援を得たフランス新政府に徹底的に 弾圧され壊滅した。

 

その後、1875年に三権分立、男性普通選挙制を採用した第三共和政憲法が成立し、第三共和政が正式にスタートした。
しかし、

 

第三共和政の前半は、小党分立状態が続き、不安定だった。