高校世界史 第1章 フランス革命<1789年~>・ナポレオン時代


フランス革命

革命以前のフランスの政治・社会体制を旧制度(アンシャン=レジーム)という。

このうちその構成は2%程度が聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)が特権身分で

国土の30~40%の土地を支配し、官職を独占、免税特権を持っていた。

 

人口の98%を占める平民(第三身分)は税を負担し国家財政を支えたが政治的に無権利で、平民の大半を占める農民は重い地代や税の負担で苦しんでいた。平民は農民と市民に区分され、農民は大地主・地主・自営農民・小作農など、市民は金融・商工業者、親方・小売商、職人・労働者である。

 

商工業者など富を蓄えた有産市民層(ブルジョワ)は不満。啓蒙思想を共有。

 

一方、アメリカ独立戦争に参戦したため、財政はついに完全に破綻した。ルイ16世はテュルゴー<重農主義者>やネッケル<銀行家>を登用し特権身分への課税などの改革を試みる。

 

1789、貴族らはこの改革に抵抗し1615年来、初めての「三部会」召集を要求し、同年5月に開催されたが、議決方法をめぐり対立。6月に第三身分代表は三部会を離脱して「国民議会」を結成し、憲法制定を誓った。これを「球戯場(テニスコート)の誓い」という。ルイ16世は国民議会を承認。

 

国民議会は憲法制定に着手するが、国王と保守派貴族はネッケルを罷免し議会を武力弾圧しようとした。これに反発したパリの民衆は1787年7月14日、専制政治の象徴であった「バスティーユ牢獄を襲撃⇨」し、全国的な農民蜂起・動乱へとつながった。

 

国民議会は事態収拾のため、8月4日に封建的特権の廃止を決め、領主裁判権や教会への1/10税などを廃止した。さらに8月26日に人権宣言を採択した。自由・平等・人民主義・私有財産の不可侵など17条の近代市民社会の原理を規定した。

 

1789年10月、ヴェルサイユ行進、国民議会は90年には教会財産の没収、ギルド制の廃止など数々の改革を実施した。

 

1791年6月に国王一家の「ヴァレンヌ逃亡事件⇨」(オーストリアへ)が発覚、国民の信頼を失墜。8月にはオーストリアとプロイセンがルイ16世の救援を各国に呼びかけ(ビルニッツ宣言)、革命への干渉を始める。

 

1791年年9月に立憲君主制、財産資格選挙、一院制議会などを定めた1791年憲法を採択。フランス初の憲法。

1791年、国民議会から立法議会に代わり、反革命活動が国内外で活発化すると

1792年3月ジロンド派の勢力が増して1792年に政権を握った。ジロンド派は4月にオーストリアに宣戦したが仏軍は敗北し、墺・プロイセン連合軍が仏国に侵入。

 

この危機に直面して、全国からの義勇軍とパリの民衆は1972年8月10日テュイルリー宮殿を襲撃して議会は王権を停止した。

 

1792年9月20日のヴァルミーの戦いで仏軍・義勇軍は、墺・プロ連合軍に初めて勝利した。

1792年9月21日男子普通選挙による国民公会が成立し、王政の廃止・共和制の樹立を宣言した。⇨第一共和政 革命のきっかけとなった三部会の開催から3年目のことであった。

 

1793年

国民公会では急伸共和主義のジャコバン派(山岳派)が勢力を増し、93年1月にはルイ16世はギロチンで処刑された。対外戦争でも現在のベルギーに侵入し、衝撃を受けた欧州各国は英国首相ピットの提唱で第1回対仏大同盟を結成。

 

6日月には山岳派が穏健なジロンド派を国民公会から追放し、独裁権を握った。ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は封建地代の無償廃止など、民衆の求める改革を徹底した。また、最高価格令・革命暦・メートル法・徴兵制の実施・理性の崇拝など急進的な政策を進める一方で反対派を多数ギロチン処刑した(恐怖政治)。

 

革命の終焉

対外危機が去ると、経済的自由を求める市民層、土地を得た農民が保守化して、独裁政治に不満が高まった。

 

1794年7月27日にテルミドールのクーデター(9日)が起き、ロべスピエールが28日ギロチン処刑され、中産市民の穏健共和派が権力を握り、1795年憲法(共和国第3年憲法)が制定され総裁5人による総裁政府(1795年~1799年)が樹立された

 

その後王党派の反乱や1796年5月の共産主義者バブーフの共産主義的陰謀などの社会不安は続き、やがて中産市民や農民は千代伊政府を待望するようになった

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復習問題

 

 


ナポレオン時代 

コルシカ島出身の軍人ナポレオン(1769年~1821年)は

 1796年にイタリア遠征軍司令官:オーストリア軍を破る。

        この時点でイタリアという国家はまだない。1861年建国。墺ハプスブ

      ルグ家が支配していた北イタリア地方。

 1798年エジプト遠征:イギリスとインドとの連絡を絶つため。陸上は勝利。

      海軍アブキール湾の戦いでイギリス海軍に敗れる。

 1799年英・露・墺などが第2回対仏大同盟を結成。ナポレオンは帰還。

 1799年11月クーデターを起こし、総裁政府を打倒(プリュメール18日のクー

      デター⇨)し、統領政府を樹立。第一統領に就任し、独裁権力を握る。

フランス革命はここで終結。

 1802年墺を破り、英国とアミアンの和約を締結し上記同盟は消滅。この間、ロー

      マ教皇と宗教協約(コンコルダート)を結ぶ。

 

内政面では、

 1800年フランス銀行を創設、財政を整理、商工業育成の基礎を築き、公教育制度

      も確立した。

 1802年終身統領に。

 1804年3月ナポレオン法典(民法典)を制定。私有財産の絶対性、法の前の平 

      等、契約の自由など近代市民社会の法原理を確立。

 1804年国民投票の圧倒的支持で皇帝に即位した。第一帝政。

 

大陸制覇

 1805年8月英・墺・露は第三回対仏大同盟を結成。10月に仏・スペイン連合艦

      隊は、ネルソンの英艦隊にトラファルガーの海戦で敗れる。

      一方、大陸では12月にアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で、墺・露

      連合軍を撃破、上記同盟を崩壊させる。

 1806年西南ドイツ諸国にライン同盟を結成させ、神聖ローマ帝国は消滅した。

      同年、イエナの戦いでプロイセン軍を破り、ティルジット条約⇨を締結。

      プロイセンは莫大な賠償金支払い、領土は半減。

      旧ポーランド領にはワルシャワ大公国を建て、兄弟をスペインやオランダ

      の王とし、ヨーロッパ大陸の大半を支配下に入れた。

      大陸封鎖令を出して、英国と大陸諸国との通商を禁じ、大陸市場の独占を

      図るが、大陸諸国の経済的打撃となった。

 1810年墺の皇女マリ=ルイーズと結婚、名門ハプスブルグ家との結びつき図る。

 

没落

 フランス革命で生まれた国民意識とナショナリズムの精神はヨーロッパ全体に広が

 り、皮肉なことにナポレオンの大陸支配に抵抗していく。

 1808年スペインに反乱(ゲリラ)がおこり、プロイセンでは哲学者フィヒテが

      「ドイツ国民に告ぐ」と連続講演して民族意識を高め、シュタイン・ハル

       デンベルグが農民開放などプロイセン改革を進めた。

 

       ロシアが大陸封鎖令を破り英国に穀物を輸出したので、1812年ロシ

       ア遠征を行うも、大失敗。これを機に第4回対仏大同盟を結成し解放戦

       争を開始。

 1813年ライプチヒの戦い⇨(諸国民戦争)でプロイ・墺・露の同盟軍に大敗。

      ライプチヒはかつてルターの主張をめぐって神学討論が行われた都市。

 1814年パリ陥落。ナポレオンは退位してエルバ島に流され、ルイ16世の弟がル

      イ18世として即位。ナポレオンはエルバ島を脱出し、1815年3月に

      皇帝に復位するが、ワーテルローの戦い⇨で大敗し(100日天下)、

      セントヘレナ島に流され、この地で1821年に死去。

 

 

★ナポレオンは何のために戦争をしたのか?

       フランスとフランス革命を守るため、英国ピット首相が結成した「対仏大

      同盟」を破壊するためだった。

 

★その役割、結果は?

      フランス革命の結果生まれた「自由主義」と「国民主義」がヨーロッパに

      広がり定着していった。

 

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復習問題

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テスト:1.

ナポレオン・ボナパルトは【 1 】の貧乏貴族出身で、砲兵士官になり革命中はジャコバン派を支持、テルミドールの反動で一時投獄された。1795年には王党派のヴァンデミエールの反乱を鎮圧し国内軍司令官に任命された。1796年には【 2 】司令官として第1回イタリア遠征で【 3 】軍を撃破し【 4 】の和で【 5 】を解体、この条約でフランスは南ネーデルラント(ベルギー)とアドリア海諸島を獲得した。

1708年イギリスのインド支配打倒を目的とした【 6 】遠征の【 7 】の戦いで【 8 】率いるイギリス艦隊に敗北、この遠征の時にナイル河口で【 9 】の碑文が発見された。このとき、【 10 】(1799年~1802年)が結成された。

この間の【 11 】年の11月9日、【 12 】で【 13 】を樹立しフランス革命に終止符を打った。

 

テスト:2.

統領政府はフランスの銀行資本家に財政的に支援され、シェイエス、ディコス、そしてナポレオンの3人の統領だったが、事実上、第1統領ナポレオンの独裁だった。第2次【 14 】(1800~1801年)でオーストリアをマレンゴの戦いで破った。リュネヴィル条約でライン左岸をオーストリアより獲得、1802年の【 15 】でイギリスと和訳、第2回対仏大同盟を解体した。

共和国8年の憲法で所有、平等、自由の原則を掲げ、1800年には【 16 】を設立した。1802年、教皇【 17 】との宗教和約=【 18 】でカトリックを許可、しかし、革命時の没収教会財産は返還しなかった。のちナポレオンは教皇【 17 】をフォンテンブローに幽閉する。また、同年、黒人奴隷制度が復活した。

1802年、公教育一般法を制定、【 19 】年には、フランス民法典【 20 】を発布した。全文2281条で人身の自由、法の前の平等、【 21 】の絶対、【 22 】の自由、良心の自由などブルジョワ市民社会の基本的権利を規定した。

『余の名誉は40回に及ぶ戦勝ではない。永遠に残るのはこの民法典である』


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テスト1.解答

1.コルシカ島

2.イタリア遠征

3.オーストリア

4.カンポ=フォルミオ

5.第1回対仏大同盟

6.エジプト

7.アブキール湾

8.ネルソン

9.ロゼッタ=ストーン

10.第2回対仏大同盟

11.1799

12.ブリュメール18日のクーデタ

13.統領政府

テスト:2.正解

14.イタリア遠征

15.アミアンの和

16.フランス銀行

17.ピウス7世

18.コンコルダート

19.1804

20.ナポレオン法典

21.私的所有権

22.契約